ばけのかわ日記

日記/備忘録/考えたことを列挙する。

世界観の話

 

自分には自分の世界観があって、前提にしてるものがあるんだよ、としたとき、私が私の世界観があるのかと気付いた、という話をしてもらって、あー、、という気付きをもらった。こうした発想は人類学的だな、と連想する。フィールドワークに現世を例えることが多いから、自分はよくこうした自分と他者との問題を考える。

 

 中でも、「世界観」はどこに帰属するのか?というのはよく考えることの一つだ。

世界観の定義とは、ある一個人が、持っている世界の認知の様式、通底している世界の法則・暗黙の信念ということが出来るかもしれない。何か、その辺詳しい人いたら知りたいです。

 

 ただそもそもの。疑問として、「世界観」はその人固有のもので、概念的な「所有物」として理解したらいいのだろうか?そして、他者との交流とは、世界観を相互に伝達する、ということなのだろうか。

  「世界観」は個人が持っているのか?あるいは公共の?他人にもあるものなのか?

 

 

ふと思う。「世界観」はどうやって形成されているのだろうか、と思う。

 

思考実験をしよう。

もしも世界に他人がいなかったら、例えば、自分が生まれた瞬間に、無人島でいたとして。そこで何か、自分が一人でサバイバルして生きるということになったとしたら。

一人で水を汲んで、火を起こして、獣を取って食べるとしたら。

自分の「世界」が何かなんて自覚しようがないじゃない。

人とコミュニケートする手段も持たない。情報をやりとりする必要性が無いからだ。

文字もなければ言葉もいらない。そこには生物的な判断と欲望があるだけになりそうだ。

生や死という概念もないかもしれない。自分が死ぬことは、自分のような人型が死ぬということによってしか理解されえなそうだ。

そう思うと抽象的な観念は獲得できなそうだ、ということがわかる。

 

もしそこに誰かが来たとしたら。同じような人がいて、共同生活を歩む必要があるとしたらどうか。たぶん自分のものだと主張する必要はあるだろうから、やり取りが生まれる。これはこうしたらいいとか、いやそれはそうじゃない、とか。自分の領域を主張したり、それを脅かしてくることすらある。それを平和的に、時には争って解決していく必要があるだろう。

 

そこに「ちがい」がある。「ちがい」を考えている「私」がいる。

世界観が生まれる。

 

 

「世界観」には「他者」が必要だ、というのが暫定的な私の意見だ。

私の「世界観」は話す相手によって、姿かたちを変える、という気すらする。

読んでいる人はどうなんだろうか?

 

 就職活動で伝えているときの、前提としている「世界観」と恋人や友人の前で話す前提とする「世界観」は異なる。食い違うことだってある。

 それはキャラとして、主義主張の仮面を付け替えたりしているということを意味するかは議論の余地がある。個人に帰属するかどうか、だ。そしてそれは能動性/消極性のいずれによって付け替えられるのか。

結局は、「世界観」は相互の間の主観によって形作られていく一種のファンタジーであるとした方が、いくらか「実用的」である(正しい、というわけではない)他人とかかわる理由になるからだ。

他人がいなければ、わたし、は存在しない。

 相互に織り合わさって、少しずつ何かが出来ていく、そこから何かを受け取る、というイメージだろうか。

一方で他人の声に満たされることもよくないと思う。それは洗脳とどう違うだろう?

ようするに、塩梅だろう。

 

お互いが心地よく、自分の世界観を保持できる関係というのが、理想なのかもしれないと思っている。

オープンに話して、食い違ったら、ごめんね、と言いながら共有しよう。