ばけのかわ日記

日記/備忘録/考えたことを列挙する。

焼肉的生き方と寿司的生き方

熱がぜんぜんないけどはちゃめちゃに咳が止まらず、昨今の事情を鑑みながら仕方なく仕事を休んだ。

 

薄めの毛布にくるまる。空気清浄機を、かける。

ポカリを飲む。イオンウォーターだ。熱出てる時、イオンウォーターが地球で1番うまい水になる。

熱がない時は30番目ぐらいだ。

 

実家にたまたま居たから、仏間の和室に隔離されている。畳の匂いと、障子を通して入ってくる薄い光。

 こうしたものに久しく触れていなかったように思う。割と贅沢だな。

 

しかし咳というのは、結構削られる気がする。

息苦しい。

不調になって初めて身体があることに気付くってBUMP OF CHICKENスーパーノヴァで言ってたけど、

えてして、そんなものだろうと思う。

不調とか、できないことが、そこに注意を向けさせるガソリンになる。

 

 おれは心がずっと晴れないから、自分は心に関心を持ち続けているし、人とうまく話せないから、人に関心を向け続けることが出来ていると言える。

 

 

 配られたカードで戦うしかないと良く言う。

でも、持ってないカードを求める心の動きにこそ、その人らしさがあると思っている。欠落によって、枠が生まれて、らしさが生まれるのだ、と思う。

 

 そうした欲望は社会的に形成されるものではなく、個人の無意識から送り込まれて来るはずだ。

 なんか、どう思われるのかなと思うけどそういうのはきっと「たましい」の領域の話だ。

 自分は、会う人に、欠落を欠落として愛してやってほしいよ、と思うけど。それもある種の思考停止かもしれない。

 欠落を怒ったり憎んだりすることだって、

何か大きなうねりを作り出すことを知っている。

 

 

「傷ついたものからしか、人は癒されない」

と、東畑開人の何かの本で読んだはずだ。Twitterから何かの記事だったかも。

かなり好きな文だ。

お金で傷ついたひとは、お金を稼ぐことによってしか癒されないし、親密な関係に傷ついたひとは、親密な関係によってしか癒されない。

 

いま自分が何かに苦しんでいる傷つきの中にこそ、絶えず興味を注ぎ続ける根拠(苦しいだろうけど)がなにか、があると思いながら、自分/他者へ耳を傾けるほかないのだろう。

 

そう思いながらふとある友達を見ると、親密な関係を求めていながら、(要するに彼女が欲しかったり、結婚したいと思いながら)孤独に創作に打ち込むということをしていて、それは苦しいだろうよ、と思っている。

 焼肉を食べたい、といって、焼肉の口になりながら、ずっと寿司を食べに行くようなものだ。

本質として満たされることはなさそうだ。

 

立ち止まって考える。

ここからわかることは2つある。

 

野暮だけど、仮に焼肉を食べなくても、生きていけるということ。そうして焼肉を空想として留めておくことは、ある種の守りでもありそうだ。

意外と実際食べてみると焼肉は、胃がもたれることだってあるだろうから。なんだ、こんなものか、と。

 

そして、もう一つ。

えてして、寿司も美味しいということ。

というより、焼肉を食べたいと願いながら食べに行く、寿司の価値は結構あるんじゃないか、と思っている。

焼肉を乗せた変わり種の寿司はくら寿司でもある。

 

焼肉的生き方と、寿司的生き方のあいだ、を探るということは、結構どんな人でもおもしろいテーマになるのかもな、とポカリを飲みながら思う。

 

友達はそういうことを、自覚してるかどうかもあんまりわかってないけれど、そういう中で創作をする。せっせと。すげーなと思うよ。

このメタファーでいくと、友人はみんなでバーベキューがしたいだけなのに、寿司職人に弟子入りしてる人に見えてくる。

 

 

なんで?、だ。

 

 でもそうして出来る寿司は旨いよな、と心底思っている。いつか、でかいカリフォルニアロールみたいに、肉でご飯を巻いたやつが出てくることを期待している。

 

焼肉的生き方と、寿司的生き方、

焼肉を食べたいのに、寿司を食べている

みたいなことは、焼肉や寿司に任意の概念を代入すれば、よく見かける光景だと思っている。

 太りたく無いのに、流行りのお菓子食べてたりするみたいなものだ。嫌いな上司に、むしろ接近して媚びてしまう、とかね。

 

連想的に話すけれど、こうした矛盾した変化の方向づけをどうするか、となったとしたら、あなたが食べたいのは焼肉ですよ!と指摘することが一つのやり方かもしれない。あるいは、寿司を食べたくさせましょう!と言うことかもしれない。

 精神分析という心の治療の世界では、こういった無意識のニーズを意識化させることが治療だ、と言う。その結果社会適応が悪くなっても知りません、と言う人も中にはいるようだ。だって、焼肉は目の前には無いわけだから。その人の社会的、文化的背景を無視した心の治療は、適応を悪化させるだろう。

その人の焼肉を求めながら、寿司を求める行為をどう理解するかに全てはかかっている気がする。

 

これを頭おかしいとか、理解できない、と切り捨てることは、切り捨てた側の理解力のなさの証明でしか無い、とだけは言っておきたい。

 

話終わり。

 

 

 最近発達障害ライフハック、みたいな本を読んだのでそこの言葉を少し引っ張ってくる。

休むことは常にベストではないが、常にベターである という命題だ。 休むことより、頑張り続けることが惰性でもある?という話の流れだった気がする。

詳しくは読んでほしい。

 

 何をベストかとするかは、考える余地があるけど、違う文脈で、極めてそう思う。

 何もしないことは、「あいだをつくる」ことでもある。新しい展開がそこから生まれてくる、そういうのを待つということは大事だ。風を待つような。

 

ボーッとしながら、このブログを書いているような、だ。

 

もっかい寝ます。咳が止まってるといいな。