ばけのかわ日記

日記/備忘録/考えたことを列挙する。

喪失が怖い話

喪失がずっと怖い。死ぬことは怖くないが、周りの誰かがいなくなることは本当に怖い。

母親や恋人や友人、そういった親密性の他者の話だ。

 

自分は過剰に優しいと評価されることがある。たぶん自分も自分を観たら優しすぎ、と言うのだろうと思う、いつも感謝を伝えているような気がする。

 

けど、それは善意から来ない。過剰な恐怖から来ている。

明日事故が起こって、大事な他者がいなくなるかもしれないとか、そういった恐怖を補償するために、過剰な配慮や感謝を伝えている気がする。

キューブラロスの、死の受容の5段階という言葉がある。死を受け入れるプロセスを段階にしたものだ。

おそらく、その途中の「取引」という状態に近い。

 

たとえば誰かと喧嘩別れしたら、それが永遠の別れになるかもよ、って話があって、そういう時に後悔したくないからというのもあるけど。

 

「おまじない」のように、感謝を述べている。

頼むから、いい子にしてるから、誰も自分の前からいなくならないで、

そしてみんなどうか、少なくとも、自分の目の届く人は幸せでいてくれ、だ。

まるでそれは、雨なんて降らないで、ずっと晴れであってくれと思うことと同じだ。

その時に出来ることはあまりに少ない。

 

 

どうして自分はこんなに喪失が怖いのか?

いないいないばあ、という遊びは、顔を隠すと隠した人が本当にいなくなっちゃった!って、赤ちゃんが不安に思うのと、いやおるやんけ!という安心のギャップでウケが発生するらしい。

つまり赤ちゃん目線だと、目の前にいるもの以外すべて、「ない」ことになっているようだ。

自分は忘れっぽい。

ということに端を発しているのかわからないが、

今目の前にいる自分と相手が、明日もそうである保証はどこにもないとわかっている。

それくらい、連続性が乏しいという意味では、赤ちゃんだろう。明日地震で全部がひっくり返ることもあり得るだろう。

 

赤ちゃんは赤ちゃんであることを自覚してないと思うが、おれの場合はしているので、自覚的赤ちゃんだということが出来る。

 

われ思う。ゆえに赤ちゃんなり。

 

喪失について。

寝て起きることは広義の死だ。

昨日の自分が死に、今日の自分が立ち上がってくる。

今の自分が、死ぬまでで、1番若い自分だ。

 

誰かとの別れだってそうだろう。

人と初めて会ったときに、砂時計がひっくり返されて、いつか傍からいなくなる瞬間がくることを想像する。砂がいつ途切れるかは誰にもわからない。ただ直観だけが少しだけ役に立つようだ。

 良い別れもあれば悪い別れもあるだろう。ただ悪いと一概に言っても、「尊敬すること」が「エネルギーを奪われる」ことだ、と前の記事でしたみたいに、快い感情が、安心を導くわけではなさそうだと考えるから頭がこんがらがってくる。

 

 

 

 有限だと思うのは予防線にもなるだろう。

どうせ、いつか離れるのだから、と思うことでしか、人と仲良くすることが出来ない。

また、相手に抱いている違和感とかもそうすることで無しに出来る側面もある。いつか離れるのだから言わないでもいいだろう、向き合わなくてもいいだろうと思っている。

 かけた時間がその人を特別にさせてくれるというのは星の王子様で言っていた。好意を持てなかった相手から、迷惑をかけられても、とかく一緒に居れば何か自分の人生にとって特別な存在になるらしい。単純化しすぎって言われたらそうだろう。けど、願わくばそうであれよ、と思う。

でも自分には価値がないから、そうした特別な人が自分と仲良くすることを良しとは思えない自分もいる。その人と別れることはおそらく信じられないほど辛いことだろうから。いい感情は安心を生み出さない。喪失がかえって怖くなるだけだ。そして、別れたり、憎むことすら心の栄養になることを知っている。

 

 

 自分が自分の人生の筋書きを作っていて、それを対人関係の中で再演しているだけだ、という向きもあるだろう。そうした場合もやはり自分は過剰に喪失や別れに対して敏感であるということがわかるだけかもしれない。どうせ別れは来るし、その時にむき出しでいることをやめたくはない。あ、これ書いてて、きちんと傷つくことに腹をくくっている自分もいるのだな、と思った。

いつも反復して、喪失を考えていることのメリットかもしれない。予防注射みたいなものだ。

 

 喪失のことを味わいながら、有限を自覚的に生きることは価値があるだろう。

ひりひりする感覚の中で生きることにもなるだろうが、生きている実感は得られるだろう。実家で家族とご飯を食べられる回数があと何回ある?と思う。とにかく今生きていることがたったこの今この瞬間しか起こらない、一回性だっていうこと。ライブなんて最たるものだし、だからライブはliveと言うらしいって本当?

 でもずっと有限を自覚し続けるのはしんどい。

 伊坂幸太郎の終末のフールでは来年世界が滅ぶ人たちが登場する。世界が滅びそうになろうが、淡々と試合の準備をするボクサーのセリフを考える。

「明日死ぬって言ったら生き方が変わるんですか?

あなたは、いったい何年生きるつもりの生き方なんですか?」

 

30年くらいかな?と思っている。

 永遠に生きるつもりで、生きたっていいかもしれない。