ばけのかわ日記

日記/備忘録/考えたことを列挙する。

2020/11/1

こんなに頑張ってるのに報われない、という感覚になるとき、自分に問いかける。

「頑張る」とは何をしたことを指すのか。

「報われる」とは何を指すのか。

上記定義をしたときに、「報われたことはなかったのか」

あったとすれば何をしたときか。

無かったとしたら何が出来るか。

 

それを繰り返すだけだ。

そこを見ていくと自分独自の反応様式がある。それをいつか、式で記述したいという欲がある。絶えず。前提にしている世界観と言ってもいい。

 人の刺激に対する反応は、単にゾウリムシのするような単純な反応ではなく、そこに論理と同様に直観や、感情が混じっている。

 ココアを見て、「ココアはやっぱり森永だ」という判断に至るまでには、人の論理や感情があり、それを定式化したい、という欲がある。「ココアはやっぱり森永ではないだろう」という判断すら原理的にはあり得たと考えたりしている。

 だから、数学をちゃんと勉強したい。概念間の地図を描くのは、数学が最も得意とする方法だと思っている。

 デカルトだって、数学の考え方は唯一確からしいから、そのロジックから哲学をスタートしようとした人だ。(あってるか?)こうしたことも雑だなあと思う。

 

 

こう思いながら夜を迎え、

人と電話をしていた。「将来子供が欲しいか」とか、そういう人生観の話だった。自分は自分を再生産するなんてとんでもない所業だと思っているから、子供が欲しいと思っているとか、家族が欲しいとか、そういう話は夢物語みたいだ。

 

自分の将来のことについて身につまされる思いだ。

「でも人は一人では生きていけないから」と言われたことが耳に残っている。

それが「家族」という形態だというなら、やっぱり自分は人間には向いていないぜ、としか言いようがない。違うあり方をずっと探したいと思っている。でもやっぱ家族にあこがれる気持ちもある。野垂れ死ぬ覚悟が出来ていないから、揺さぶられるのだなと思う。

 自分はずっと幼稚園児のメンタルだと思う。人には甘えていながら甘やかすことが出来ないということ。近づかれると逃げてしまうこと。頑張るけど、苦しくなってしまうこと。自分は30歳より生きていたくないと思っている。ただ、おそらく生きるだろうなと思っている。確率0.数パーセントにかけるのはばかげている。

 なるべくなら一人ですべてを賄えたらと思っている。それは自己完結したいという欲求だろうし、どこにも所属せず、誰とも依存関係もなく、ただ、そこに植物が生えて、いなくなるみたいに消えてしまいたいと思っている。土から養分は貰っているが、土と植物は家族ではない。死ぬことは怖くないが、死自体が無意味になることはただただ怖い。死んだら、直葬してほしいとは思っているが、そこは残された人たちに任せたい。普通にちゃんと死ねたなら、どうか献体とかに回して誰かに肉体を物理的に学びに使ってほしい。

 こうした考え方ちゃんといずれ深堀りする必要があるだろう。なぜかたくなに、自己完結しようとするのか。これは自己愛の問題だと思う。

 米津玄師とか、Vtuberとか。最近のは、自己完結している人がもてはやされている、気がする。(これも全部妄想かもしれない)絵も、動画もプロモーションも全部自分の息がかかっていますということだ。

 原子力高速増殖炉がもてはやされたのも自分で自分のエネルギーを準備できるようになりたいんだ、という幻想が、人には生得的にあるからそうなってるのだろう。

 自立したいこと、一人でなんでもできる、と思いたいこと。それは逆説的に、何もしらない幼児みたいなものを連想させる。

以前に自覚的な赤ちゃんだ、という話をしたけれど、やはりここでも自覚的赤ちゃんだということが出来る。

 

 人に迷惑をかけ続けるのは辛いから、いつか死ねばいいや、という甘ったるい現実逃避をするのはかなりしょうもない、ということを知っておいた方がいい。

 

「いつか一切は過ぎ去る」ということがおまじないだ。馬鹿みたいな不幸も、幸福も続かない。

この言葉だけが自分を安心させてくれる、お守りみたいなものだ。さて、こうやってうだうだ話して、そしたら、ちゃんと行動に起こそう。

 

youtubeの動画を編集して投稿した。めちゃくちゃ面白くできた。

またここともリンクさせてやっていきたい。

刹那的に生きている気がする。でも長い目で考えるのが苦しいんだよ。

安定した仕事とか立場とか、そういうのを聴くと泣きそうになっちゃうんだ。腹をくくれていない、ということなんだろうけど。

 

 そうやって流しでジプシーのように生きていくことを、どう長期的な人生の視座に落ち着けていくか、というのが問題なのだろうと思う。