ささやかな幸せについて
ささやかな幸せ、というお題ワードが出た。
逆に聞きたいけど
ささやかでない以外の幸せって何?
幸せの定義にささやかであることは包含されていると思っている。
身に余る幸福はむしろ遅効性の毒であって、
後からその喪失がじりじりと忍び寄ってくる不安と
闘いながら幸せを享受しないといけない。
好きな人のために何かする、というのは言えるかもしれない。特定の個人であれ、特定の考え方の集団であれ、だ。
観測している範囲のことを話すしか出来ないけれど。幸福でないことは、孤立していることと相関していると言えるかもしれない。
社会的孤立が強まっていくと、思想が激しくなる気がする。内面から出る欲望の純度が高まると、
社会の欲望との程よい距離が取れなくなっていく。
きちんとバランスの良い食事を与えられないと、辛いもの好きの人間は、辛いものばかり食べる。すると。ますます辛いものを求めるようになっていく、ということに似ている。
ソシオメーターという理論がある。
雑に言うと、自尊心は、社会参加がうまくいっている程度を表すものさしだ、という考え方だ。
自尊心が高いことは所属集団の中で何かの貢献がなされていることによって下支えされている。
人とは違うことが強まると、孤立するのではなく、
新しい、辛いもの好きの中で群れる。
こうすることで、下がった自尊心は保たれる。
辛いもの好きはその集団の中では、居場所を保持するのに役に立つ属性だからだ。
カルトだってそうだろう。ただその人たちの価値観に、後ろ指を刺すことはできない。ただ社会的な困りごとについて話し合う他ないのだ。
今自分は何の集団に属しているのか、自覚的になる必要はあるだろう。自覚的に振る舞いを使い分けたい。
その集団の価値観に染まればそれは幸せかもしれないが、同時に盲目ということもできる。
ささやかでいい気がしてるな。
観念的すぎる。
具体的な行動を伴わないから楽なんだよな。
こういうのも、行動は善でそれ以外の思索はとるにたらないと思ってる前提がある気がする。
何もしないこと、ただ無目的的にいることの目的性をきちんと自信を持って主張したい。