2020/12/13
うどん食べたし、くら寿司を食べた。
いろいろ話して、良かったな。
どうなるかわからんけど、でもまあ、なんかなんとかなるか、と思う。
いつか別れるし、とは思わずに済みそうだとも思った。
二者関係を丁寧にやって、それでまあいずれ別々の道がいいかも、となったらそれはその時考えたらいいから、投げやりになることを予防線にせずとも今はいいのかな、と思うというか。爆発してしまうのは、やっぱりどこかプレッシャーがあるんだと思うんだよな。それは相手に安心を与えられてないからそうなるのかな?
大事だ、といいながら接近しすぎないでくれ、とメタでメッセージを与えているような気がしていて、それはダブルバインドなんだよな。それは言われた方は絶対混乱するだろうな、と思っているので、
もっと誠実なあり方を心がけようと思っている。本当はそれは矛盾するつもりは自分の中では無くて、
程よい距離感を持ち続けたいんだ、ということなんだとおもう。
どうせいつか死ぬし、というのは予防線になりこそすれ目の前の問題を解決してくれないのと同じだ。お互いのニーズをちゃんとくみ取りながらでも、嫌なことは嫌と言える練習を一緒にしてくれている、と考えてみる。今度はぜひ嫌なことは嫌と言えるようにしたいや。
ザ・クルーというボードゲームを2人でやったんだけど、めちゃくちゃ面白かった。うんうん、と丁寧にルールを読んでる時じっとそこにいてくれるだけでありがたみがある。
前日に電話で、あなたは半径2メートル以内に人がいないようにしている生き方をしてるし、それって寂しいと思っているし、入り込まれると威嚇されちゃうんだなと思ってるみたいと言われた。
すごいイメージだし、そう言われるとそうだろうなとも思う。
本性は限りなくひきこもりだ。対人関係が不安なままの。
トリテを非言語でやる感じ。でもともすれば奉行問題というか、わかってない人がゲームをぶっ壊したり、上手い人があとで講釈を垂れてしまって、初心者が委縮するみたいな感じにならないか不安になるよ。
仲のいい人達で、軽口をたたきながらやるゲームなんだろうな。知らん人達だと、かなりほんわかプレイを前提にしましょうね(つまり人のプレイを批判したりする行為は辞める、あとでの振り返りも穏やかに丁寧に行うし、それは押し付けがましくなってはいけない)、と共有しておくぐらいの気持ちで行った方が良いです。
(俺は言ってしまいそうなんで)
そのご。友達に、話の作り方がわからないときどうする?と投げかけてみた。自分は創作しかり生来のADHD傾向からか、見通しが立たないことが多く、それがずいぶんコンプレックスだ。
その友達から帰ってきた言葉は
「ビートたけしは撮りたいシーンを考えて、それを適当に繋げる」
じゃあ撮りたいシーンはどうやって考える?
と尋ねたら全く黙っていた。
あとは虚しさ以外の描写が出来ない、と言っていた。難しいとも。
結局書けるものは人によって限られていること、自己理解をして、出来るアウトプットを、すること。
同じ仕事をしている友達は、楽しそうに話していたが。話し方がそいつはうまい。
おれは、今の仕事って向いてないだろうなあ。と思う。人と話してても、言葉を紡いでいても、何かぴったりくる感じがないで。
ほんらい、人とコミュニケートすることに価値を置いてないからだろうな。孤独が怖いという気持ちだけで、人と過剰適応的に関わるようになっているだけだ。そして、辛いところに身を置いたら、慣れるだろうと思っていた
それがそもそもの圧倒的な間違いであった
とは思うが、聞いていると他の仕事もえてしてかなり大変そうで、結局自分の対処スキルを上げること以外にないのかもしれない。
初心を忘れない。自分の初心は、人とかかわるのが苦手で、それを何とかしたかったから。あとは、人を理解したいと思ったからだ。
優しい人になりたかったからだ。そして強い人間になりたかったからだ。