ポンコツ人付き合い論
夜勤明け。
職場の人からお菓子を貰う。
喉が痛いし、鼻水は止まんないし。
シンプルな風邪だと思う。熱はない。コロナが怖いが、仕事は行く方が良さそうだ。
こういう時、休むという判断は、さぼりでもなんでもなく、むしろ頑張り続けることが惰性だと思う。物理学を人の心の理解に援用することがいかに野暮かということを思いながら、
慣性の法則、というのは、行動にも当てはまると思う。一度動き始めたものを止めることはとても体力を使う。休む、頑張ることによってなされるという矛盾。
概念メタファ論
(レイコフ,ジョンソン 1980)によれば、言語表現が、単なるレトリックじゃなくて、概念理解に強く影響を与えているということがあるようだ。
ざっくりいうと。人の心や立場など目に見えないものは、は何かの例え話によって規定されている。そしてそれが、人類共通のものであるということだ。
たとえば立場がえらいひとは、「うえ」であり、えらくない人は「した」であるというように。「社会的地位」と上下の方向付けはどの民族でも一定見られるという。
「気分」も「あがる」「さがる」という言い方をするだろう。
こういう時、「グッドは上、バッドは下」という理解が人間に備わっている理解の様式となる。
天国が上で、地獄が下であるというように。
話それた。
惰性で文章も書いてしまうね。
職場の人と話した。発達グレーの人間は、「儀礼とか、慣習」を嫌うけれど、茶番感に耐えられないという。
ただ、むしろそれを身に付けることが社会適応なのだ、ということを常に思う。
食事中に水が減っていたら注ぐ。片づけは率先してやる。
ソファ席には異性や目上の人を譲る。
たまに贈り物をする。
贈答する、というのは発達グレーにとって良い文化だ、と思う。
面倒なコミュニケーションを必要としないからだ。
送るだけでポイントが上がる。あなたのことを気にかけていますよ、というメタメッセージだけが伝わる。あんまり高いのはNGだと思うけど。過剰さは、気持ち悪さに繋がるのだ。その辺の機微は転んで学ぶほかない。むしろ、こういう時はこれを送れ、という本があったら欲しいとすら思う。
むしろ距離を取りたければ逆をすればよい。というか上記のことをしなければよい。
ハロウィンなど、はそうだ。贈答と、そして死者(あちら側)とが交差する世界だ
そこには中間地帯としての「遊び」がある。儀礼は遊びを作り出すように思う。
型の中に含まれる、自由さ、ということを私たち(発達グレー?)は軽視し過ぎている。
将棋で一手目から、55飛車なんて、やったら遊びとして成立しない、というような話だ。
とにかく、フィールドワーカーになって、その暗黙によしとされている文化を探りましょう。そうして、それを明文化して、突き付けたりましょう。それはあるいは野暮、と呼ばれる作業だが、こうした営みが爽やかなコミュニケーションをうむのだろうと思っている。
ハイコンテクストな文脈だけで閉じこもってられるほど、もはや閉じておくことは難しくなった。
ポンコツさんは、暗黙知を明文化するために、その仕事場に現れるスサノヲみたいなものだ。穢れを引き受けていずれ下の世界に堕ちるとしても、企業という総体の中で必要なものなのだ。と思いながらやっていくほかない。
大きな流れの中で、あなたはそれに翻弄されるほかない。それが必要だからだ。
だからこそ、あなたはあなたを大事にしてくれ。