10/20/2020
前日の夜から、翌日の発表のための資料を作っていた。すごいダラダラ作っちゃった。
自分は仕事が出来ない、と思っているが、これは固定的な能力なのではなく、
変動的な能力なんだ、ということを理解しておく必要がある。コミュニケーションだってそうだ。昔よりいくらかうまくいくようになっている気がするしスタイルだっていくらか違う。純粋性を発揮すれば何かが変わるという言説は、発揮するやり方によるだろう。怒りに気付いていたからと言って、それを十分に表現する方法は技術であるだろう。つまり必要条件で合って、十分条件でないというような気がする。そこはすごく感じている。
絵だってそうだ、描かなければ成長しないし、描かなければさび付いていく。
大事なのは、さびは割とすぐ取れるということ、一度通った道は少しずつ舗装されていくということだ。筋トレも同じだ一度ついた筋肉はまたすぐ戻る。
スライドをうまく作るスキルだってそうだ。
とにかく、細かく自分が出来ないと思っていることを眺めてみる。
新しいことをやり続ける。学ぶ、そうしたことがライフワークになるように。
そういうことと、これまである価値観を大事にすることは相反するかもしれない。
常に関係性を再構築しながらやっていく必要がありそうだ。
それに、逃げ道を作らないようにしないといけない。たとえば今みたいにブログを書くようなことでだ。
うまくいかないということは、基本をわかっていないということでもある。
どこに上ることがいいのか。何が正しさか、そういうことをきちんと考えながら、やっていきたい。
とか思いながら、
発表した。
あなたのためにも、これはこのまま進めない方がいいです、と言われてしまった。
厳しいようだけれど、そこは譲れない、とのこと。
あーーー
と思った。
そりゃそうだよな、とおもった。
でもそれでもやりたかったら、どこがだめでしょうか?改善の余地はありますか?と尋ねたり、やります、と言えばよかったんだ。いろんな感情が沸いてきて、資料を眺めるのが辛かったから、家に寝かせてしまった。
結局いつも、自分の中の波が収まるまで、熱い感情には触れることが出来ないから、
自分はダメなんだろうか?と思う。
人に何かを伝えるときに声が上ずってしまったり、しどろもどろになってしまったりするときがある、それも混みで伝わるとしたら、何が伝わるのだろうか?と思っている。
感情に触れる怖さ、何かとてつもないものを動かしてしまうかも、という怖さは自分のクセなのだと思う。
変化させることについて、自分が何を得て考えたらいいのかがわからずにやり取りをしているような感じがする。