ばけのかわ日記

日記/備忘録/考えたことを列挙する。

たぬき的自己理解

ジブリって何が好きですか?

って話はだいたい知り合った人とすると人間性がわかるのでいい質問だと思っている。

そんなことないですかね。

 

平成狸合戦ぽんぽこジブリでTOP3に入るくらい好きなんですよ。TOP3っていうとあとの二つは?って聞かれても答えられない。猫の恩返しは入ると思う。

 

ざっくりとした解説しかできないんですけど、都市開発で住処を追われそうになったたぬきが、化け術で、人間を追い払おうとする話です。

 

最後は、たぬきの里のみんなの命を懸けた百鬼夜行も、人間の遊園地の事前キャンペーンだってことにされたり、集団幻覚だってことになっちゃって、失敗に終わって。結局たぬきは人に化けて、なんとか尻尾を隠しながら目にクマを作りながら人里で適応して生きていく。

 たぬきをテーマにした作品だと有頂天家族とかもそうね。森見先生の本って、元気がないときにでも読めるからいいと思う。なんか、押しつけがましくないけど、自意識がのたまってる。無駄話が全体の9割を占めているし。ふはふはの毛玉。

 この時の人の皮をかぶるって行為がずっと好きで。哀愁っていうか、自分を重ねたくなるというか。自分はずっと人とは何か違うという感覚がするんですよ。ずっと言っとるなおれは。

 

 なんとか人としてふるまわないと、「普通の人」にならないとっていうか。じゃないとたぬきはたぬき鍋=社会的な死にされちゃうでしょ、と思っていて、それが苦しい、みたいなナラティブがずっと自分の中であったんですよ。今もあるし、たまにそれが出てのたうち回る瞬間はある。なんでおれはこんなことも出来ないんだっていうか。人と目を合わせるのもつらいんで。

 

 物理的には自分のことを人間だとは思ってるんですけど、自分はやはりたぬきっていうか人じゃねえなと思ってる。気が付くと、どんぐりを集めている可能性がある。誰かに指摘されて、初めて、「えっどんぐりを普通の人間は集めたりしないんですか!?」(抱えたどんぐりをばらばらとこぼす)って言うてしまいそう。

 でもまあ、自分をたぬきだと語ることのメリットっていうのは、やっぱりどこまでいっても自分はたぬきにしかなれないと諦めが出来ることだろうと思う。

 諦めってのは良くないとか、良いとか言われるけど、なんというかこれも程度の話で程よく諦めないと、今は何でも自由に決められる(と思われている)世の中なので、選ばなかった方の選択肢の重さに殺される気がしませんか?

 

 たぶん全然そんなことは無くて、生まれとか性別とか、どちらかというと「選ばさせられている」側面があると思ってて。環境と自分との相互作用で選んだ/選ばされた というか「いつの間にかこんなことになってましたけど」という中動態の方がしっくりくるような感じすらしているけど、やっぱり自由意志ってのを今の世界って仮定しているので、ふと選ばなかったことのプレッシャーってのは今の選んだ方が上手くいってなければ行ってないほど呪いみたいにスリップダメージが入っていきますね。もっと出来るようにならんと、とか、「普通になりたい」「好きなことをして生きていかないと全部あとはダメ」みたいなのも呪いですわよ。

 人になることを諦めたら、化けの皮を少しずつはがす必要がある。馬脚をあらわす。余談ですけど、たぬきとかムジナとか、狐じゃないですか。化ける奴って。でも正体を現すときは「馬脚をあらわす」っていうのすごい面白くないですか?こいつ馬でもあったんかと思う。

最初からたぬきでも、そうであれば強靭な肉体と精神を持つ強いたぬきになるほうがいい。愛嬌を使いこなしてもいいかもしれない。とにかくたぬきとしてやっていく。人を化かす(!)ということすらありえる。

 人のことがわからないと思う自分を責めてたけど、人里には人里のルールがあるっぽいたぬ、と思いながら人里のルールを学びに行く方がいくらか建設的でしょう。男が女心わからん、みたいなことを責め立てたってしょうがないよ、と思ってるし…。

 

 狸合戦ぽんぽこのラストは、最後人里で適応しているたぬきが、野山でたぬきと邂逅して、みんなでたぬきの姿になって再会を喜ぶところで終わるんですけど。それはすごく理想的だな、と思うと同時に、そこは完全にファンタジーだよな、と思ってる。同じたぬきであっても、分かり合えるかはまた別の話だ。それぞれのたぬ生(人生みたいなこと)があるので。

 HSP概念が最近は流行っている。自分も買ったし結構読んだ。繊細過ぎて生きづらい人達、のことだけど。生きづらくない人なんてそもそもいるのだろうかという気もしてくる。よりよく生きたいと思うことと、それは不安と裏表だと森田正馬も言っていたし。よりよく生きようとする欲動を手放すことは、社会的な死=たぬき鍋をもたらすのかもしれない。たぬきであるということを言い訳にして止まってしまうのはもったいない。ただ自分は自分にしかなれず、にもかかわらずどうするか、ということを考え続けるしかなく、その副産物の中で、人と交流したり、何かを生み出すことをライフワークにするしかないのだなあ。終わり。