メモ
インターネットで、信じられない!ありえない!!と怒る人がいる。
そういう対して思うことは、こうあるべき、という世界観への思想が強いのかな?と思ったりしながら、
そういう無理解の中で相当がんばってきたのかもしれないし、傷ついてきたりしたのかもしれない、と思う。
怒ってる人たちは、いつも傷ついている、という前提を持ちたい。
小さい子どもが癇癪を起こしている、ように見る時もある。古傷が疼く、というような怒り方だ。
怒りは二次感情であるという考え方を思い出した。
怒りは何かを隠蔽している。自分が傷ついたり、怖かったりした時、不安な時にイライラする。
脅かされた時に生じるんだろう。
そんで。怒ってる人たちは
自分が傷つけられたようなやり方や正論を使って、怒る気がする。
涙の数だけ強くなれるよ、という歌詞があるけど、
絶対そんなことばっかりじゃあねえよなあ、と思う。
責められたり、辛い思いをすればするほど、視野は狭まるし、過激な考え方に身を委ねたくなるだろうな。
自分もどんどんジジイになるにつけ、偏狭になるんじゃないかと思う。少なくとも幼い子どもは苦手になったし、数字至上主義みたいな営業マンと関わるのも最悪になってしまった。偏見だろうけど、自分がそういう人と話すと少し変化してしまうのが怖いんだろうな。
職場でもいるけど、観察してると攻撃性が高い人は、けっこう脆い人なんだろうなーと思う。その人は何か起こるとものすごく被害的な感じがでる。
気さくな人が他の人にするような形で気配りをしても、自分にあてつけている、という感覚になって傷ついてしまうことがあるらしい。って話を聞いた。
これはまあ、関係性にもよるか?
そんで、その人はコミュニケーションを話題にする時「勝った」と表現して誇示することがある。
それが少し悲しくなる。もちろん多様性の観点からは勝った負けたの表現を認めるべきなんだろうけど、自分の気持ちからすると、どうしてもそうやって、誰かに自分のやり取りで、打ち負かすという感覚は持ち得ないからだ。わからなすぎて怖いというまである。
勝ったか負けたかは、どうでもいいじゃんと言いたくなる。結局は、自分の意見と相手の意見を混ぜて何かを作ろうとする営みであって。
うーん、いやまあ、あかんな、なるべく理解しようとするけど、そういう言い回しする人嫌いだわ。
分かり合えないし、わかり合いたくもないね。
でも分かり合える余地もありたいよ。
話をもどそう。
最初の上記のことを思うのは、女性のことをわかってない!という意見だった。
ふと自分をあんまり、そういう怒り方はしないな、と思ったけど、発達障がいをこんなミスはよくあることだ、とか、慣れでなんとかなるよ、とかそういう意見を見るとイライラしてしまう。
つらさを認めてくれるだけで良いのに、そういうステップをすっとばすことも多い。
苦しいとき、一緒に溺れてくれる人が貴重なのはそのせいだ。出口が見えなくてうーんって困る。
そういうのを誰か一緒にしてくれるだけでいいのかもしれない。
まあ、自分は男性なので、きっとほとんど分かってないだろうなあと思う。
男性で傍観者してる側も、加害側に加担してる、という論理がある。個人的にはあんまり好きではない。
合ってるんだけど、思想をコントロールされてるんじゃないかと思うからかな。
中立などは存在せず、問題の外にいる、というスタンスはありえない、とも思う。そこにはなんらかの当事者性がある。常になんらかの立場を表明しているという考えには賛成だけど。
でも、やっぱり全部の問題に対して当事者意識を持つのはしんどすぎるよ、と思う。常々限界だし、無理だよ。
無関心が、話題になる世界で誰も彼も無関心にならざるをえないのは、関心ごとがあまりに多すぎるからだ、ということかもしれない。
みんな誰も彼も忙しなさすぎる。退屈が悪になる。
本当は余白がないと、人は潰れるのに。
だから、おれのスタンスは、
自ら当事者意識を、持たねばならないと思うのではなく、全部を分かるような努力をするのではなく(そうした努力は明確に不健康だし、最近の10代はこういうものを目指しすぎている気がする)何か指摘された時に、あっ、それで傷ついたんですね、怒ったんですね、ということに開かれておきたい、ということなのかも。