断言することについて
はっきりと何かを言える人っているじゃないですか。ばーんって。
断言しちゃう人がいる。それは〇〇に違いないよ。
そういう人には、僕には何もわからない何かが見えてるように思う。知らんけど。
でもむしろ何かが見えてないのかも、と思う。
科学をとても大事にしてる人に対して、それに対する基本的な信頼感はおれからは信仰と変わらないように見える。それはおれが科学に対する信頼がないからなのか、スピリチュアルなものに対して関心が高いからかはわからないんだよな。
エビデンスが目の前のものに適応されるかどうかは誰もわからんのではなかろうか?
100人に効いた薬が、目の前の101人目のあなたに効くことを誰も保証してくれない、みたいなことだ。
すると、未来に賭ける、ということが発生する。
未来は「ない」が故に、「どんなことでもありえる」と言ってもいいんじゃないかと思う。
次の瞬間に、目の前の水が突如沸騰する可能性がゼロではないだろうって、わりと素直に信じている。
こういうことを話すと、こやつ、信用ならないぞ、ということになってしまう。結果を予測できないのだから、責任なんてハリボテだと思いながら話す言葉は羽のように軽く空虚だ。
どうやら自分は行動や前例と、結果が、他の人が思ってるより、はるかにほとんど無相関だと思っているということらしい。
こうした直観や肌感覚はワーキングメモリと相関している気がする。あったことが残らないこと、過程を飛ばして目の前に結果だけがあるようなことだ。
みんなこれでうまくいってるから、は正論でもある。正論で殴ると、だいたいの人は痛い!と思って終わりではと思う。
知識としてのエビデンスをうまいこと使いながら、それを目の前の事象に適用しようとする自分や相手の主観も味わっておく、ということでしかないのではないか?そこにはわりと豊かな営みはある気がする。
あとエビデンスってなに?
エビダンスならわかるんだけど。
エビチャンスもわかる。エビの機会。
エビバンクもわかる。エビの銀行だよね。
エビデンスだけがわからない。
余談だけどベーコンエピが、
ベーコンにまつわるエピソードだったらいいなって思う。
そんなカリカリすんなよ、って焼いてるベーコンに言う、くらいしか思い浮かばない。
これはエビじゃなくてエピだ。
断言について、おれはいつもはぐらかすというか、両側に触れる。aでもあり、aでないでもあるだろうな、と。
どっちだと思いますか、だ。
村上春樹のキャラみたいなことをしてしまう。
ただ、おれは何にもわからないから、わからないって言う。素直にわからん、という。もうそれしかない。そこだけはちゃんと断言できる。
人に関心が向かない時は向いてないぞ、と気づいとく。とにかくその状態でのベストを尽くすしかない。