10/10/2020
夢を話した。最近よく夢を見る。
夢を話すことの、意味について考えている。
夢を話すと、答えが得られる、というわけではない。夢は粘土であり、素材で、それを作って何を作ってもいい、と言うことなのかもしれない。
ただそこには素材の指向性というものがある。
木工で、鉄の仏像は作ることが出来ない、というようなものかもしれない。
夢をお師匠に話すとき、なんでそんな連想をしようと思うんですか?と尋ねてみた。何がその人の中で起こって、検閲が発生してるのか?と聞きたかった。
まあ、ふっと浮かんだことだよね、と笑っていた。
連想が全然湧かないね、という話もしていた。
率直で面白いな、と思った。
ただ、自分がそれに関心があるからだろうな、という話もしていた。僕には今それに関心がある、だからそれと繋がっているものが浮かぶ。
完全にあなたの話を整理するために存在するわけじゃなくて、生身の人として存在する。
とりあえずわーっと考えていて、それが意味がありそうだ、という瞬間それを伝える。その時関心があるものが浮かんできやすい。当たり前のことだ。
話を聞くことはあなたの役に立ってるようでいて、聞いてる側も何かをもらっているのだと。「僕も僕の人生の流れの中で考えてるんで」
そりゃそうだな、と思う。そこに素朴な驚きとかはなくて、知ってた、と思うし、安心する感じがある。人と交流することの価値を信じてる人の言い方で、それは結構安心する。
全然話変わるけど、
自分に価値はないと思うという考え方で苦しんでる人に あなたに価値はあるよ、という話をされても、いやそうは思えんじゃろがい、と思って終わる。
自分に価値があるかどうかは、究極のところわからないのだ、という方がいくらか救われるんじゃないかと思っている。てかそうだろ、と。
価値があるかどうかで悩む時、それは一つの評価軸で苦しんでる、ということのはずだ。
わかりやすい世間の評価軸に、流されると辛い。かと言って自分の中に引きこもったり、意固地になるのも、うまくいかない気がしている。それは世間への反発心を孕んでいる。
人間が対等に会話するということ、そこになにか専門性が入ってくるっていうこと。
ヨコとタテ、というイメージが浮かぶ、
そうしたイメージを、広げると、編み物を編むみたいな連想が浮かぶ。
それを感じながら、人と話したいと思った。俺が何か、出来るわけじゃない。
そのあと仕事行った。
よー働いた。最近、よく喋ってる自分がいる。
とにかく何か説得的なレトリックを使っているようにも思う。納得いかない、と言われることも増えたけど、でも、なんというか、納得してるかどうかも、何もこれまで自分は知ろうとしなかったのかもね。