人が苦手論
人とかかわる仕事をしているくせに、人のことを常にめちゃくちゃ苦手に感じている。
人が嫌いというわけではない、人が苦手だし、怖いのだ。
お師匠からは、「うっすらトラウマ反応じゃないかい?」と言われている。書くとつらいのであれだけど人が怖い状況を思うと、幼少期の体験を思い返すことはある。抑制して振舞うことがその時は適応的だったのだ。
お師匠いわく、「とにかく差し出して、返ってきたものから考えて修正するしかない」と言われている。「ちゃんとあなたもその場の一員を構成している一人なんだから、あなたの言葉を伝えなさい」と。少し救われると同時に背筋が伸びる。それはやはり、基本的な原理ぽい。
ずっと言っているけど幼少期から人の感覚と微妙に違う感覚がある。と思うと中二病だってなるけど本当に思ってるんだから仕方ないんですけど、
人間向いてねえと思う瞬間と、人間うまいことやれてるねという瞬間があって、自分が面倒だと思うことがある。だいたいの人がその反復横跳びをやっててほしい。仕事だって、地に足をつけることに怖さがある。いつでもジェットコースターから降りれるようにしておきたい、みたいな。途中で降りたらジェットコースターあぶねえ。
自分の「人が苦手」状態を詳しく観察してみる。
認知行動療法のモデルは割と便利である。それが絶対というよりかは細かく見るときに役に立つと思っているが、専門の訓練を受けたことがないので、これがうまく使いこなせているかは疑問。
いや、高尚な原理主義より、とりあえず使ってみて、役に立たないなと思うところはそこで改めるようなプラグマティックな考え方のが好きなので、まあそれはそれで、いいんじゃないですか。
「人が怖い」ということを言ってしまうとそれを改善するのは難しい。怖いということが何を指すのかもそれぞれだ。ぞわぞわ、するのか、昔の記憶がよみがえるのか。
思うのは、困り事は対処可能なレベルにまで細分化した方がいい。場面を取っても、初対面が苦手。半知りが苦手。集団が苦手。人に話しかけるのが苦手。自己紹介が苦手、世間話が苦手、目上の女性が苦手、、、どういうときに不安が高まるのか、気付いておくことはそれだけで般化を防いでくれる。
もちろん、何か具体的な対処法を思いつくためにはという注意書きがいる。
少しでも生活を楽にして、前に進めるためには、ということだ。
一方で、人が怖い、とざっくり標榜しておくこと、ユング的に言うとペルソナをつけることだし、キャラともいえるかもしれない。そういうことのメリットもあるんだろうなと最近考えている。というか、どんなことであってもプラスの要素が無かったら継続しなくないか?と思っているためだ。
余談だけど、友達が毎日人からの反応が無くてもブログを上げ続けていて、クレイジーだと思っている。友達はどこに正の強化を見出しているんだろう?今後聞いてみよ。そこは真似したい。
それでですけど。人が怖いと思っておくことのメリットを考えてみる。人が怖い、と標榜しておくと、ああ、そういう人なんだなと思ってくれたり、それ自体が自己開示になって話題になったりするだろう。あるいは人とかかわらないときの自己弁護に使えるだろう。だって苦手なんだから。だから「人が怖い」という言葉を手放せない。人とかかわるための一つの武器なんだろう。
そのほか、
自分は割と人並みに仕事が出来ない(出来ないのか?)。
自分で何かを決められない。(決めないといけないのか?)
自分は一人では何も対処が出来ない(対処しないといけないのか?)
とかの自己認識がある。
とかくまあポンコツである、ということにしている。ただ、セルフハンディキャップっていう考え方(テスト全然勉強してないわ、と予防線を張ること)を援用すると、こういう考え方をしているとパフォーマンスが本当に落ちるということが研究でわかっている。
だから(だから?)、自分は人として出来てない、ではなくて、つまりポンコツである、というのではなくて、本来がたぬき的生物であると思っていることにする、化けの皮をかぶる、だ。
たぬきという意味では、ぽんぽこである。ぽんぽこなら、別に仕方ないかな。
自分のことをたぬきだといえるようになってから生きやすさが増したのでいいですよ。おすすめ。
でも人が怖いと言うことは、短期的にはメリットでも、長期的にはデメリットだったりするかもしれない。人とこちらから積極的に関わることを避けている言い訳を与えては、あまりいいことにはならないだろうからだ。何もなくても差し出すということだ。
結論は無いです、とりあえず生活をやっていきましょう。